小娘のつれづれ

一人で自分の”好き”を追いかけ続け、執筆業になりました。著書『SMAPと、とあるファンの物語 -あの頃の未来に私たちは立ってはいないけど-』(双葉社)好評発売中

「なぜ無責任発言は炎上したのか(仮)」

<はじめに>

今回掲載している文章は、未完成のものです。

<長いつづき>

今回掲載している文章は、2019年1月27日に発表されたアイドルグループ・嵐の活動休止と、それに伴う(記者会見を含めた)一連の反応を見て、思うところがあり、自発的に書き始めていったものでした。

そして初稿が出来た後、どこか発信できるところはないだろうかと、今までの仕事などを通じて複数のメディアの編集者にご相談をさせていただいたのですが、結果からいうと叶わず、現在に至ります。

編集者の方々との推敲を経て、それでも掲載が叶わなかった主な理由は媒体としての発信スタンスの違い、またタイミング的に嵐の活動休止に関する寄稿が掲載されたばかりだった、さらにもちろんそれらの事情を納得させることのできなかった私の技量の未熟さ、というのもあるのですが

ただ今回偶然にも複数人から同じ原稿への意見を聞くことで、新しく得られたものもありました。それはまさに「アイドル」という存在に対するとらえ方が、多数の国民的アイドルグループを輩出した平成の終わりになってもなお、人によって現在進行形ではっきり異なっているのではないか、という疑問です。

というかもしかしたら”多数の国民的アイドルグループを輩出した平成に居合わせた私たち”だからこそ、アイドルの見方は年々分かれ、そしてさらにいえばそれは、年々深い溝を作りながらはっきり二分されていってるんじゃないか。そんなことを今回のやりとりを通じ、強く思ったのです。

今回の原稿で、ある方はファン的心情をなるべく取り除いた、私たちと同じく負うべき責務を内包する成人/社会人としてのアイドルを「フラットに論じる説得力」ことを重要視されていました。一方である方は「ファンとしての生身の声」をもっと出した方が魅力的に届きそうと、感想をおっしゃっていました。

そんな形でまったく逆の意見が連続で返ってきたことで、改めて振り返ると

私が今回書いた原稿もあわせて、なんだかこの「アイドルとは何か」の混沌としたまじりあいは、もしかしたら何よりも「今のアイドルが置かれている場所」そのものなんじゃないか。

というわけで載せる場所もない原稿とさまよった結果、今回はあえて未完成のまま、私が書いたものをブログとnoteに全部置いてみようと決めました。

最後にひとつだけ個人的なことを書かせてもらえば、私はたとえアイドル観がバラバラであったとしても、それでもこの原稿を書きたいなぁと思い、今日も同じところで生きています。

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なぜ無責任発言は炎上したのか(仮)


 国民的アイドルグループ・嵐が2020年末に活動を休止するというニュースは、衝撃こそ大きかったが、本人たちがすぐに記者会見を開いて経緯を説明したということもあり、概ね前向きに受け入れられた。しかしその中でほぼ唯一“大炎上”を巻き起こしたのが、先の記者会見で飛び出た、ある記者の言葉である。

「(活動休止の決断は)無責任じゃないかという指摘もあると思うんです」

 この「無責任」という言葉に対し、「自由な生活がしてみたい」と直前に活動休止の理由を明かしていた大野智の心情を慮ってか、櫻井翔は明らかに怒りを隠しながら返答。そしてそのやりとりがテレビで流れ始めると、ネットでもすぐに「あの質問は何だ」「それはさすがに違う」と、怒りに同調する投稿が相次いでいったのだった。

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 電撃発表と記者会見から数日立った今、あれは一種の“必要悪”な質問だったのではないか、という意見もある。

 ひとつは、活動休止に関するネガティブなコメントの代弁という見方。このご時世、何か問題が起こったときに、憶測レベルで誰か一人をやり玉にあげ、集中的に中傷するというのはありがちなことである。それを最初に、しかも本人たちに投げかけることで、結果としてはメンバーの強い否定が引き出され、そこに意味があったと考える人もいる。

 また、彼らが30代の成熟した社会人であるということを踏まえ、活動休止発表を文字通りの「無責任」と受け取った人も、少なからず存在はしていた。それは今まで現実的に、彼らの活動を支えるために数えきれないほどの人が働き、それに連動して日本経済も彼らの活動に大きく動かされてきたという事実に基づいてのものだ。

 あの発言が、そこから“降りる”ことの社会的責任を率直に彼らに尋ねたものだった、と考えれば、「無責任」がチョイスされたプロセスも、少しは理解できる。

 しかしそれでも今回、当該記者が確実に目測を誤ってしまった部分はある。それは特に近年の「アイドル」は、労働者や商品という以上に、現代社会において人間の生き方そのものを広く考えさせる、そんなシンボルになりつつあるのだ、ということだ。

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 振り返れば確かに、光GENJIまでのアイドルは、国民にとって一過性の華やかな消費物であった。トイレにいかない、セックスもしない、永遠に若くて未熟で無知なままの偶像。それは「らしさ」が強固に求められていた昭和時代の残り香が、自然とそうさせていたとも言える。

 そして特に光GENJIを例にすれば、彼らは時代が求めた「らしさ」の中で、理想の偶像を完璧に創り上げたプロフェッショナル・チームだった。時に個々のはみ出す若さを必死に抑えながら、見事な光を放ち、強烈なインパクトを残す。だからこそ彼らは時代に名を刻む、紛うことなき国民的アイドルグループになっていったのだ。

 しかしその直後に続いたSMAPはというと、光GENJIという完璧な偶像のプロフェッショナルの影に長年苦しんだ末に、その光GENJIが残した下地を元にして、今度は先輩が封じ込められていた「らしさ」の同調圧力を、同じアイドルという立場から派手に打ち破ろうとする。

 アイドルを名乗る彼らは、それまではタブーとされていた恋愛や加齢の話をさらけ出しながら、ドラマや映画、バラエティの分野でも大きな成功をおさめ、国民的スターとして地位を確立していった。ただアイドルらしさという制約から脱してそれぞれの生まれ持ったものを伸ばしていこうという取り組みは、当事者にとっては同時に「アイドルのくせに」「未熟なくせに」「無知なくせに」という、隠れた蔑みとの闘いの日々でもあったという。

 そうした苦悩の末に、SMAPがアイドルグループとして提示した答えとはオンリーワン、すなわち「自分たちは労働者や商品である以前に人間である」という、ごく当たり前で、それでも前時代では聞き入れられなかった価値観だった。

 そして生身の人間として、ありのままを尊重して生きていこうとするアイドルたちのメッセージとゆっくり連動するように、いつしか労働、貧困格差、性差別と、さまざまな分野で一方的に他者から都合よく押し付けられてきた生き方の壁を打ち破ろうと、声を上げる人々は平成後期、格段に増えていく。

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 しかしある意味、時代の流れを先取りし、自ら体現していたはずのSMAPも、結局は2015~2016年にかけて大きな壁にぶつかる。それは彼らがどれだけ人間としての生き方を丁寧に発信しようと、結局最後には彼らの決断が「アイドルのくせに」「未熟なくせに」「無知なくせに」という侮蔑交じりの偏見に晒される形で、簡単に消費されてしまったという事実である。

 分裂騒動が持ち上がった後、そしてグループが解散を発表した後、ネットやコンビニの雑誌棚に真っ先に並んだのは「不仲」という言葉だった。

 その前段階には近しいスタッフに対する衆人環視の中でのパワーハラスメント、また本人たちの信頼関係やブランドイメージが瓦解するような謝罪会見という事実があったことを、多くの人々は目撃し、知っていたはずなのだ。

 だがその中で、SMAPが28年間のキャリアをもってして、悩み抜いた末に解散という決断を下した瞬間、彼らに降り注いだのは、走り続けた労いではなく「不仲」という空虚な噂話の羅列だった。

 もちろん彼らが懸命に生きてきた末の社会的評価が、それだけで終わってはならないと、解散前から反発の意思を実際に行動で表現する者もいた。その代表例があの「世界に一つだけの花」購買運動である。

 アイドルファンのバカな行動と揶揄されながらも、それでも最終的に2016年内だけで40万枚以上のCD売上記録がオリコンチャートに刻まれたのは、賛同者の多くがテレビの向こうで苦しむSMAPの存在を、使い捨ての労働者や商品としてではなく、同じ社会で共生する人間として尊重して見ていた、その表れに他ならない。

 それでも、SMAPは個々のラジオで大きな感謝を伝えつつ、最後のテレビ出演となった『SMAP×SMAP』では悪意を含んだ憶測や中傷に何も反論することのないまま、無言で数分に渡って頭を下げ続けることで、“社会的責任”をとってカメラの前から去っていった。
 
 あの日のSMAPを、アイドルを、前時代からのイメージで単なる消費物として見ていた人は、その姿に納得して溜飲を下げたのかもしれない。
 
 しかし平成も終わりを迎えようとしている現代では、最後まで個々の意思や尊厳以上に社会的責任が先行していたその光景はもはや旧態依然的だと、はっきり口にする人も確実に増えてきていた。その流れがあっての、先日の、同じ国民的アイドルの決断における「無責任」炎上騒動なのである。

 同時代を生きる他者のひとつの生き方としての「アイドル」。いまやそう捉えられることが何ら不思議ではなくなってきた彼らに、無意識だったとしても意図的であったとしても、記者の質問はそれぞれの人間らしさを越えて「旧来的な社会が求める労働者としてのあり方」を、一方的に押し付ける形になってしまった。
 
 そこにある、決定的な見解の断絶。そして食い違う是非こそが、今回の発言を燃やす、大きな火種になってしまったのである。

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 平成の終わりに、私たちの生きる社会はまださまざまな課題を抱えながら、それでも社会にどう尽くすかということではなく「どう自分らしく生きるか」、それと向き合い行動していくことが、少しずつ理解を得られる環境に変わりつつある。

 ただその中で、自分らしい生き方に向き合って2年後の活動休止を決断したアイドルに投げられた「無責任」の言葉。また今もなお一部で「結婚問題」「メンバー内での格差・不満」と憶測が盛り付けられている報道の有り様は、ある意味で私たちの社会に今も隠れ続けている「他者への蔑み交じりの無理解」、そんな象徴のように感じられた。

 知らぬフリをしたくないと思うのは、これからも彼らアイドルはエンターテインメントという仕事を通じ、どこかで苦しむ誰かの日々を確かに支えていくということ。そしてその光を決定的に欲し、彼らを国民的アイドルグループとして唯一無二の存在にしたものこそ、私たちの生きた平成だったのではないか、ということだ。
 
 そして記者会見の翌日。“未熟で無知なはず“のアイドルは突然投げかけられた「無責任」に対し、やはり自分の言葉で、こうして区切りをつけていたのだった。

「自分の中での温度が少し上がったというのはあるかもしれないです。ただあの質問があったおかげで、結果として我々の思いを、きちんと伝えることができたとも思っています」(櫻井翔/「news zero」日本テレビ系/2019年1月28日放送分)

「2019-01-27」