小娘のつれづれ

一人で自分の”好き”を追いかけています。

戦後初のジャズブームでフィーチャーされた、ライブハウスとしての「ジャズ喫茶」

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よく似た存在、そして誕生時期もほぼ重なっている海外型ガールグループの成り立ちを一通り追いかけたところで、ここからはいよいよ、当連載において極めて重要なセクションと言える「日本アイドルの形成過程」の話に入りたい。
1940~1960年代アメリカの若者向けエンタメ史を再確認したこのタイミングで、時間の針を巻き戻し、改めて1945年からの日本に目を向ける。
そうすると現代のアイドル・ガールグループ・ボーイバンドにおける差異はそもそもなぜ生まれたのか、その根本からの全てが、やっと明確に浮かび上がってくるのだ。

■第三章 日本アイドルの「形成過程」 (1945~1963)

終戦による洋楽の再流入

海の向こうのアメリカでアンドリュース・シスターズの『Rum and Coca-Cola』 が大ヒットしていた1945年、同年の日本では太平洋戦争での降伏を意味するポツダム宣言の受諾公表、そして直後に開始された進駐軍の上陸を境に、国民の暮らしが猛スピードで価値観の再構築に包まれていく。
その再構築の一環として、進駐軍が試みたアプローチのひとつに「ラジオ」があった。
日本放送協会編『放送の五十年 昭和とともに』によると、進駐軍向けのラジオ放送(以下、進駐軍放送)が日本全国で始まったのは1945年9月23日 、玉音放送の節目からわずか1か月後のことである。
名前の通りに進駐軍向けの英語放送ではあるものの、実際には日本の一般家庭でも聴取可能になっていたこの放送でとにかく頻繁に流れたのは、戦時中には敵性音楽として排除されていたジャズ音楽だった。
終戦時に21歳だったジャズ評論家の瀬川昌久は、当時の進駐軍放送についてこう振り返っている。

「戦前は、ラジオなんかで一週間に一回ぐらいしか軽音楽の時間がないし、外へ行かなきゃ聴けないし、田舎の人は聴く機会がなかった。戦後は、田舎にいたるまで、朝から晩までラジオが。進駐軍放送がいちばん入りやすい波長で。だれでも「センチメンタル・ジャーニー」を覚えちゃった」
(瀬川昌久、大谷能生『日本ジャズの誕生』青土社、2008年)

その後、進駐軍放送自体は1952年の日本主権回復(ただしこの時点では奄美諸島・小笠原諸島・沖縄などが未返還)により、日本の一般家庭からは徐々に距離が離れていくことになるのだが、進駐軍放送が育んだ関心はその1952年、独立間もない日本にジャズブームという大きな波をもたらすことになった。

戦後日本初のジャズブームの立役者はアメリカの超大物ドラマー、ジーン・クルーパとされる。

Gene Krupa

www.youtube.com

かつてベニー・グッドマン楽団やトミー・ドーシー楽団にも所属し、ダイナミックなドラミングで1930~1940年代アメリカのスウィングジャズブームを牽引した彼は、1952年4月に初めて一般人向けの日本公演を行っているのだが、これは日本の大衆にとって「ラジオやレコードでしか聴くことのできなかった有名ミュージシャンの演奏がついに生で聴ける」、戦後初の出来事でもあった。
そしてこの時期を境に日本国内で一気に高まったジャズ音楽への関心は、その後も相次いだ海外有名ミュージシャンの来日公演、そして主権回復に進駐軍の撤退などといったいくつかの環境変化も重なると、急速にある場所へ集約されていく。
各地の「ジャズ喫茶」である。

戦後初のジャズブームでフィーチャーされた、ライブハウスとしての「ジャズ喫茶」

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