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若き優等生が歌うポップミュージックの流行

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若き優等生が歌うポップミュージックの流行

前述の通り、すでに1960年代初頭のアメリカでは若者に衝撃をもたらしたロックンロールブームが過去の記憶にされつつあった。
しかしその一方で、ロックンロールが存在を知らしめた若者たちの熱量は、これからがさらに高まるとも見込まれていた。
親世代の世界大戦からの解放と連動して生まれたベビーブーマー世代が、1960年代には次々にティーンエイジャーとなることを、アメリカの出生率はずっと指し示していたからである。
そうなるとブームが沈静化しても、若者向け市場に引き続き”新商品”が投入されるのはごく自然な判断である。
だがひとつだけ、その商品は「優等生的」であることが絶対条件だった。

「50年代末、ロックンロール・シーンを牽引していたスター・シンガーたちがいっせいに第一線を退いた。この時期以降しばらくの間、少なくともヒット・チャート上からは不良っぽいロックンロール派の音楽がほとんど姿を消し、もっと親しみやすく、優等生的な手触りの、大人も文句をつけないようなヒット・ソングが幅をきかせはじめた」
(萩原健太『ロックンロールの時代:~ロックンロール誕生からフィル・スペクターまで~』)

1960年代が始まったばかりのこの時期、若者に届く新たな音楽が「優等生」に定められたのは、どちらかというと若者自身の渇望以上に当時のアメリカ音楽界の都合が先立っていた。
直前に起こったペイオラスキャンダルはロックンロールの生みの親だったアラン・フリードの栄光を一気に吹き飛ばしたが、そもそも彼が曲を流す見返りとしてレコード会社からの謝礼を受け取っていたのは、それが1950年代のアメリカ音楽界全体の慣例でもあったからである。
しかし1950年代末にマスメディア内の謝礼のやりとりが社会問題化し、アメリカ連邦議会の下院監視委員会がラジオDJたちに聞き取りを行った際、謝礼を受け取ったことはないという宣誓書への署名を拒否した“反抗的な”アラン・フリードが後に商業賄賂の罪で起訴されたのに対し、事前にレコード会社との利害関係を全て精算した有名ラジオDJ・ディック・クラークは「立派な青年」とのコメント付きで起訴を免れるなど、「従順かどうか」でその後の明暗はくっきり分かれた。
このペイオラスキャンダルの裁きに見え隠れする保守層の大人たちの視線を、当時のアメリカ音楽界はおそらく、無視することなんてできなかったであろう。
だからこそ1960年代初頭の若者に届く新たな音楽は「優等生でなければならなかった」のである。

では実際に、1960年代初頭の若者へ届けられていた「優等生的ポップミュージック」とは一体どんなものだったのだろうか。

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