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ロカビリー歌手とコーラスグループを結びつけた、日本のテレビ黎明期の内情
日本ではアメリカから少し遅れる形で、主権回復後の1953年にテレビの本放送がスタートしていた。
しかし1950年代の人気テレビ番組のレギュラー出演者欄には、当時国民的人気を誇っていた映画スターの名前が見当たらない。
代わりによく記載されているのは映画会社のスターシステムとは異なる場所、いずれも舞台で芸才を育ててきた寄席芸人 、喜劇俳優、そして少女歌劇出身者の名前である。
この結果には、大きく2つの理由が存在している。
まず1つめは、「観客動員数の黄金時代を迎えていた日本の映画業界がテレビを脅威とみなし、非協力的なスタンスで対抗したこと」。
実際に1950年代後半にかけて、テレビでの邦画放送や国内映画スターの出演は、大手映画会社による五社協定(1958年から3年間は六社協定)という形で急速に制限されていった。当時まだ新興メディアのテレビが既存の映画人気と手を取り合うのは、あまりにも非現実的な状況だった。
そして2つめは、「当時のテレビ番組の多くが生放送を前提としていたこと」。
日本のテレビ史初期はコスト面などで録画用機材がまだ実用的なレベルに達しておらず、音楽番組もバラエティもドラマもほぼすべて、生放送の一発勝負という状況である。
しかも映画スターの出演はほぼ不可能となると、当時のテレビ局のキャスティングが寄席芸人、喜劇俳優、少女歌劇出身者……いわゆる”舞台育ち”のアドリブに強い芸能人に集中するのは、ある意味当然の流れでもあった。
そして、この黎明期のテレビ局が求めていたキャスティングの系譜に、やはり”舞台育ち”だったロカビリー歌手や国産コーラスグループは、ブームの後押しも受けて1950年代末から次々と合流していくのである。
まず真っ先にテレビ番組のレギュラー出演で成功を収めたのは、5人組男性コーラスグループの伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズだった。