小娘のつれづれ

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1936年の明日待子

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若者と表現者たちの解逅、それは「不条理」の果てに

①1936年の明日待子
日本社会の近代化と閉塞感が急加速していた1920年代末~1930年代初頭、心の逃げ場としてエロ・グロ・ナンセンスが流行したことは既に触れているが、実はほぼ同じ時期に、一部の若者はまた少しベクトルの異なる華やかさにも逃げ場を求めていた。
ちょうど全盛期を迎えていたレビュー・軽演劇の分野における、少女スターである。

1913年の宝塚唱歌隊、現宝塚歌劇団誕生から始まる日本のレビュー(歌・ダンス・寸劇を組み合わせたショー)文化、そして1917年の浅草オペラブームから始まる日本の軽演劇(娯楽性を重視した演劇)文化は、関東大震災とその影響が間に挟まりつつも、1930年代になると大衆娯楽としてそれぞれ大きな花を咲かせていた。
このうち、特に軽演劇の分野で東京の劇団・ムーランルージュ新宿座の看板女優として絶大な人気を集めたのが明日待子だ。

1920年に岩手県で生まれた彼女は、同劇団の地方巡業時に偶然スカウトされて1933年に上京、そのまま13歳で舞台デビューを飾っている。
やはり同時代にレビューの分野では”男装の麗人”松竹歌劇団の水の江瀧子がカリスマ的支持を得ているのだが、凛々しい美青年スタイルで観客の心を射抜く水の江に比べると、明日待子はどこか幼さの残る愛らしい表情が印象的な存在だった。

そんな人気女優・明日待子には、今日まで語り継がれている有名なエピソードがある。

話の始まりは初舞台から約3年が経ち、企業広告にも登場するなど明日待子の人気・知名度がすっかり高まっていた、1936年5月のことだった。
16歳の待子はその日も、ムーランルージュ新宿座の舞台に普段通り出演する。
しかしいつもと何も変わらない公演内容、最後の演目もまもなく終わろうとしている場面で、客席に座っていた観客が突然立ち上がると、待子の名前を叫びながらそのまま万歳三唱をし始めた。
待子が驚いて目線を向けると、その先には挙手の敬礼をする七名の若い兵士たちが立っている。
続けてそのうちの一名が「明日待子さん、自分たちは……」と話し始めるのだが、ここで見張っていた憲兵が駆けつけ、兵士たちは平手打ちとともに外へ連れ出されてしまう。

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