小娘のつれづれ

一人で自分の”好き”を追いかけています。

1944年のフランク・シナトラ

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5.若者と表現者たちの解逅、それは「不条理」の果てに

②1944年のフランク・シナトラ
かつて一世を風靡した「ロストジェネレーション」や「フラッパー」たちの享楽的華やかさが、混迷を極める国際情勢の中ですっかり遠い過去になっていた1944年。
ラジオから流れてくるビング・クロスビーのささやく歌声に魅了され、歌手を志したフランク・シナトラは、トミー・ドーシー楽団の所属歌手として発表した『I'll Never Smile Again』が大ヒットしたことをきっかけに、自身もまたスター歌手への仲間入りを果たしていた。
彼の人気を強固に支えていた存在、それは1939~1942年までの楽団所属時代もそれ以降のソロ活動も、10代の少女たちである。

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「あいつが歌うために立ちあがると、客席から興奮の波が押し寄せてくるのが感じられるほどだった。女好きのする二枚目スターというんじゃないんだからねえ。でっかい耳をしたやせこけた若僧なんだ。それでも、彼が女たちに及ぼしたものはすさまじかった」(トミー・ドーシー)
(キティ・ケリー(柴田京子訳)『ヒズ・ウェイ』文藝春秋、1989年)

シナトラが少女たちの心を鷲掴みにした理由は、大きく二つある。
まずひとつは彼の「マイクパフォーマンス」だ。

シナトラがスター街道を歩み始めた1940年代初頭というのはまだ、現代のようなワイヤレスマイクは普及していないため、歌手は固定されたマイクスタンドの前でそのまま歌いきるのがごく一般的であった。
しかし強い上昇志向を持ち、競争心を常に燃やしていたシナトラは、その常識を自らキャリア早々に打ち破る。
ビング・クロスビーさながらの美しいクルーナー・スタイルで観客へ歌いかけるだけでなく、彼は楽曲の内容に合わせてマイクスタンドを握りしめる、引きつける、寝かせるなど、動きの大きいパフォーマンスをどんどん展開していったのだ。

その斬新で魅惑的なステージが観客を、中でも多感な時期の少女たちを、虜にしないわけがなかった。

「シナトラは聴衆と自分との間に親密な関係を築くことに成功する。一人一人に対してまるで自分のために歌ってくれているような錯覚を与えながら」
(ピート・ハミル(馬場啓一訳)『ザ・ヴォイス:フランク・シナトラの人生』日之出出版、1999年)

またもうひとつ、少女たちの中でフランク・シナトラを唯一無二の存在たらしめていたもの。それは「ブランディング」である。

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