小娘のつれづれ

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1962年、日本アイドルの原型「フレッシュなコーラスグループ」の登場

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日本アイドルの原型①:「フレッシュなコーラスグループ」の登場

1961年のある日、いまだロカビリーブームの熱気が残る”ライブハウス”型有名ジャズ喫茶・東京銀座のテネシーに、一人の男性客が訪れた。
男性はいくつかのステージを見た後、その出演者の中から20歳前後の男性3名に自ら声をかけていく。

「お前たち3人ちょっとテレビ局に来いよ」

ロカビリー歌手とコーラスグループを結びつけた、日本のテレビ黎明期の内情

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ロカビリー歌手とコーラスグループを結びつけた、日本のテレビ黎明期の内情

日本ではアメリカから少し遅れる形で、主権回復後の1953年にテレビの本放送がスタートしていた。
しかし1950年代の人気テレビ番組のレギュラー出演者欄には、当時国民的人気を誇っていた映画スターの名前が見当たらない。
代わりによく記載されているのは映画会社のスターシステムとは異なる場所、いずれも舞台で芸才を育ててきた寄席芸人喜劇俳優、そして少女歌劇出身者の名前である。

この結果には、大きく2つの理由が存在している。
まず1つめは、「観客動員数の黄金時代を迎えていた日本の映画業界がテレビを脅威とみなし、非協力的なスタンスで対抗したこと」。
実際に1950年代後半にかけて、テレビでの邦画放送や国内映画スターの出演は、大手映画会社による五社協定(1958年から3年間は六社協定)という形で急速に制限されていった。当時まだ新興メディアのテレビが既存の映画人気と手を取り合うのは、あまりにも非現実的な状況だった。

そして2つめは、「当時のテレビ番組の多くが生放送を前提としていたこと」。
日本のテレビ史初期はコスト面などで録画用機材がまだ実用的なレベルに達しておらず、音楽番組もバラエティもドラマもほぼすべて、生放送の一発勝負という状況である。
しかも映画スターの出演はほぼ不可能となると、当時のテレビ局のキャスティングが寄席芸人、喜劇俳優、少女歌劇出身者……いわゆる”舞台育ち”のアドリブに強い芸能人に集中するのは、ある意味当然の流れでもあった。
そして、この黎明期のテレビ局が求めていたキャスティングの系譜に、やはり”舞台育ち”だったロカビリー歌手国産コーラスグループは、ブームの後押しも受けて1950年代末から次々と合流していくのである。

まず真っ先にテレビ番組のレギュラー出演で成功を収めたのは、5人組男性コーラスグループの伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズだった。

【無料】1958年、若者によるもうひとつの”昂奮と陶酔”コーラスブーム

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1958年、若者によるもうひとつの”昂奮と陶酔”コーラスブーム

瀬川昌久と大谷能生の共著『日本ジャズの誕生』などの関連文献によると、実は戦前=1930年代の日本でも、アメリカから輸入されていたミルス・ブラザーズやボズウェル・シスターズのレコードに影響を受ける形で、日本人コーラスグループがいくつか誕生していたという。

中野忠晴とコロムビア・リズム・ボーイズ『タイガー・ラッグ(原題:Tiger Rag)』
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コロムビア・リズム・シスターズ『もしもし亀よ』(作編曲:服部良一
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戦前日本のコーラスグループはジャズのスタンダードナンバーの邦訳カバーはもちろん、日本風のメロディにジャズ風アレンジを加えたオリジナル作品なども歌っていた。
しかし1941年の太平洋戦争勃発後も音楽活動を続けられたアメリカのコーラスグループとは対照的に、日本のコーラスグループは戦時体制が本格化するとメンバーの徴兵、そして当時のコーラスワークの柱でもあったジャズも敵性音楽として規制されたことから、その多くが継続困難となり、解散してしまう。
そして終戦後も彼らが復活するケースはほとんどなかった。

こうして戦争に阻まれ、一度は途切れてしまった日本のコーラスグループ史。
しかし終戦から約10年が経過する1950年代半ばになると、その歴史を再び繋ぎ合わせるかのような動きが大衆の渇求から始まる。
すでにブームとなっていたレコード鑑賞・バンド生演奏をウリにするジャズ喫茶に続き、来店客による合唱をウリにした「歌声喫茶」が、東京で次々開店し始めたのだ。

「「青春はふたたび来らず。ぼくたち青年、学生の一つの幸福追求の手段ですよ・・・・」。ここ新宿の一角に、粗末な丸太を組み合せたような造りの喫茶兼酒場”カチューシャ”は”うたごえ"時代が生んだ産物である。(略)そちらの一角には組合青年部といった風の数人が、演劇サークル論をたたかわせており、バーの片隅では、うすあかりに、ひとり深刻そうな顔の背広学生がしきりに鉛筆を走らせている。少しおくれて女性だけの三人連れが来て、一隅をしめる。と突然、二階の張り出しの方から、「リンゴの花ほころび、川面にかすみたち・・・・」と二、三人のうたが響き出す、と、状況が一変する。今までのチグハグ感はどこへやら、力いっぱいの齊唱である。「カチューシャ」は「トロイカ」になり、「灯」になり、「仕事の歌」になる。「我等の仲間」を歌うころには、完全にうちとけた”うたごえ”仲間である」
(『知性』1956年7月号)※原文ママ

まだ現代のようなカラオケビジネスも存在しないこの時代、歌声喫茶が提供する合唱の連帯感は、特に若い世代を惹きつける魅力があった。
そしてこの歌声喫茶で人気の高かったロシア民謡『ともしび』をプロとしてカバーしたのが、慶應義塾大学の男声合唱団出身、男性4人組コーラスグループ・ダークダックスである。

ダークダックス『ともしび(原題:Огонёк)』

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「彼らコーラス・グループの歌声は、人々にとってモダンそのものだったのである。痙攣的で官能的なロカビリーとは異なる、しかも湿気をぬぐい去れない日本調歌謡曲とも異なる、もう一つの歌の世界がそこにあった」
(菊地史彦『「日本」の戦後史 【第2章 ザ・ピーナッツの時代】:[1]ザ・ピーナッツ――コーラス・ブームから』論座)


アメリカのミルス・ブラザーズに深い尊敬を抱き、メンバー全員がまだ20代の若者ながらすでに高い完成度を誇っていたダークダックスのハーモニーは、この『ともしび』の歌唱をきっかけに知名度が上がり、直後から彼らはヒットを連発。
そして1958年にはついにNHK紅白歌合戦初出場も決めるのだが、これは前年までソロ歌手しか出場できなかった慣例を打ち破って「紅白にグループ歌手が出場した」史上初のケースでもあった。

そんな盛り上がりの規模を見れば、ダークダックスのブレイクを挟む形で1950年代後半の日本に、有名コーラスグループの結成とデビューが集中しているのもすぐに合点がいく。
後にダークダックスを含めて「三大コーラスグループ」と呼ばれるようになるデューク・エイセスは1955年に、またボニージャックスは1958年に、それぞれ活動を開始していた。

またコーラス人気の高まりを受けて1958年12月に東京で開催されたコンサートイベント「ジャズコーラスの祭典」には、男性コーラスグループだけでなく、女性コーラスグループも複数参加している。
この「ジャズコーラスの祭典」に出演した女性コーラスグループのラインナップで、特に目を惹くのは伊藤シスターズの名前だ。
この時はまだ本名を名乗っていた彼女たちが「ザ・ピーナッツ」と名付けられ、ドゥーワップカバーで全米1位を獲得したあのマクガイア・シスターズを憧れの存在として 、レコードデビューするのは翌年春の話である。

ザ・ピーナッツ『可愛い花』

ザ・ピーナッツ全集

ザ・ピーナッツ全集

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――そして、戦後日本のコーラスグループ史を語る上で絶対に外せないザ・ピーナッツの名前が出てきたところで、1950年代後半のブームの中心にいたダークダックスやザ・ピーナッツのような若き国産コーラスグループ、そして同時期のもうひとつのブームの中心にいた平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスのような若きロカビリー歌手たちのバイオグラフィを改めて追いかけてみると、ふとこんなことに気づく。
一見まったく違う熱源から生まれていたはずの両者の足跡は、実はこの後から、急激に融合していくのである。

その動きはジャズ喫茶の盛り上がりからロカビリー歌手が、そして歌声喫茶の盛り上がりから国産コーラスグループが、それぞれの分野で大きな成功を収めた直後の1959年に始まっていた。
彼らが出会い、そして時代の伴走者となった場所。
それはテレビである。


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1958年、アメリカのロックンロールとは違う方向に進み始めたロカビリーブームとその事情

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1958年、アメリカのロックンロールとは違う方向に進み始めたロカビリーブームとその事情

前述の通り、日本のロカビリーブームは1958年2月の第一回「日劇ウエスタン・カーニバル」開催を皮切りに始まった。同じ時期、アメリカのロックンロールの勢いはまだ健在で、エルヴィス・プレスリーもギリギリ入隊前である。
だが第二章で触れたように、アメリカのロックンロールブームはその後、フルスピードで変容していく。その要因は引退、徴兵、あるいは犯罪行為など、人気歌手自身が歩む”その後”が、若いファン心理との間に大きな溝を生んだからであった。

そして同じ時代に同じ熱源から始まる日本のロカビリーブームもまた、時間の経過とともにだんだんと変容し始めるのだが、ここで注目したいのはその中身だ。
結論から先に述べると、アメリカの若者向け音楽市場では”主役が入れ替わった”のに対し、日本の若者向け音楽市場では”主役が自ら変化していった”のだ。
その変化とはずばり、「ロカビリー歌手自身の優等生化」である。

ジャズ喫茶の特異な熱狂から生まれたロカビリーブーム

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ジャズ喫茶の特異な熱狂から生まれたロカビリーブーム

日本にも訪れた、「耳で、頭で聞くための音楽」と「単純明快に踊れる音楽」の分離。
そこから生まれる逆風は各地のジャズ喫茶や日本人ジャズバンドはもちろん、1955年に日本人ジャズミュージシャンのマネジメントを目的として芸能事務所・渡辺プロダクションを設立したばかりの渡邊晋・渡邊美佐夫妻にも、やはり厳しく吹き付けていた。
しかし1957年11月、渡邊美佐はたまたま、ジャズ喫茶で若者たちの”特異な熱狂”を初めて目撃する。

その熱狂のルーツは、実はジャズと同じく、あの占領期にあった。
進駐軍放送を通じて多くの人がジャズ音楽に夢中になっていた頃、一方ではジャズに交じって時折流れる「カントリー・アンド・ウェスタン」(以下、C&W)に心惹かれる者がいた。
アコースティックギターやバンジョーなどのシンプルかつ明るい音色が印象的なC&Wは、アメリカではジャズ同様に戦前から根強い支持を獲得していた音楽ジャンルである。
そして進駐軍キャンプに場所を移しても、このC&Wはやはり兵士からの演奏リクエストが多かった 。そのため1948年頃には、日本人ミュージシャンの中でも本格的なC&Wバンドを結成する者がちらほら現れ始める。
その後、1952年に日本の主権が回復すると、同時期のジャズバンドと同じように、C&Wバンドもまた主戦場をジャズ喫茶に移し、日本人の観客相手に演奏するようになっていた。
こうして同じ道を歩んでいた日本のジャズとC&W。しかし1950年代も後半に差し掛かると、両者を取り巻く状況は急激に変化し始める。
ビバップ時代に突入することでブームが落ち着いていくジャズとは対照的に、日本のC&Wはむしろここから、人気の枝葉をどんどん伸ばし始めたのである。
その躍進の裏には海外からの心強い援軍の存在もあった。ちょうど同じころ、C&Wも源流のひとつとする新たな音楽「ロックンロール」が、アメリカで大流行し始めたのだ。

――渡邊美佐が目撃していた1957年11月の”特異な熱狂”も、その源となっていたのはジャズ喫茶のステージで演奏している、日本人C&Wバンドだった。
中でも思わず目を見張ったのは、ボーカルの若い男性に対する、女性ファンの熱狂的な反応である。

戦後初のジャズブームでフィーチャーされた、ライブハウスとしての「ジャズ喫茶」

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よく似た存在、そして誕生時期もほぼ重なっている海外型ガールグループの成り立ちを一通り追いかけたところで、ここからはいよいよ、当連載において極めて重要なセクションと言える「日本アイドルの形成過程」の話に入りたい。
1940~1960年代アメリカの若者向けエンタメ史を再確認したこのタイミングで、時間の針を巻き戻し、改めて1945年からの日本に目を向ける。
そうすると現代のアイドル・ガールグループ・ボーイバンドにおける差異はそもそもなぜ生まれたのか、その根本からの全てが、やっと明確に浮かび上がってくるのだ。

■第三章 日本アイドルの「形成過程」 (1945~1963)

終戦による洋楽の再流入

海の向こうのアメリカでアンドリュース・シスターズの『Rum and Coca-Cola』 が大ヒットしていた1945年、同年の日本では太平洋戦争での降伏を意味するポツダム宣言の受諾公表、そして直後に開始された進駐軍の上陸を境に、国民の暮らしが猛スピードで価値観の再構築に包まれていく。
その再構築の一環として、進駐軍が試みたアプローチのひとつに「ラジオ」があった。
日本放送協会編『放送の五十年 昭和とともに』によると、進駐軍向けのラジオ放送(以下、進駐軍放送)が日本全国で始まったのは1945年9月23日 、玉音放送の節目からわずか1か月後のことである。
名前の通りに進駐軍向けの英語放送ではあるものの、実際には日本の一般家庭でも聴取可能になっていたこの放送でとにかく頻繁に流れたのは、戦時中には敵性音楽として排除されていたジャズ音楽だった。
終戦時に21歳だったジャズ評論家の瀬川昌久は、当時の進駐軍放送についてこう振り返っている。

「戦前は、ラジオなんかで一週間に一回ぐらいしか軽音楽の時間がないし、外へ行かなきゃ聴けないし、田舎の人は聴く機会がなかった。戦後は、田舎にいたるまで、朝から晩までラジオが。進駐軍放送がいちばん入りやすい波長で。だれでも「センチメンタル・ジャーニー」を覚えちゃった」
(瀬川昌久、大谷能生『日本ジャズの誕生』青土社、2008年)

その後、進駐軍放送自体は1952年の日本主権回復(ただしこの時点では奄美諸島・小笠原諸島・沖縄などが未返還)により、日本の一般家庭からは徐々に距離が離れていくことになるのだが、進駐軍放送が育んだ関心はその1952年、独立間もない日本にジャズブームという大きな波をもたらすことになった。

戦後日本初のジャズブームの立役者はアメリカの超大物ドラマー、ジーン・クルーパとされる。

Gene Krupa

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かつてベニー・グッドマン楽団やトミー・ドーシー楽団にも所属し、ダイナミックなドラミングで1930~1940年代アメリカのスウィングジャズブームを牽引した彼は、1952年4月に初めて一般人向けの日本公演を行っているのだが、これは日本の大衆にとって「ラジオやレコードでしか聴くことのできなかった有名ミュージシャンの演奏がついに生で聴ける」、戦後初の出来事でもあった。
そしてこの時期を境に日本国内で一気に高まったジャズ音楽への関心は、その後も相次いだ海外有名ミュージシャンの来日公演、そして主権回復に進駐軍の撤退などといったいくつかの環境変化も重なると、急速にある場所へ集約されていく。
各地の「ジャズ喫茶」である。

戦後初のジャズブームでフィーチャーされた、ライブハウスとしての「ジャズ喫茶」

「アイドルの源流を探る」 第三章以降についてのおことわり

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「アイドルの源流を探る」 第三章以降についてのおことわり

第三章以降で取り上げる旧ジャニーズ事務所の創業者・ジャニー喜多川氏に関しては死去後の2023年8月、外部の専門家で構成された特別チームの調査により、青少年に対する性加害の事実が認定されました。
この時公表された調査報告書では、創業前の1950年代、そして創業と重なる1960年代初頭から性加害があったとの証言が掲載されています。

当連載はこのジャニー喜多川氏による性加害の事実を認識した上で、過去資料を再検証し、日本アイドル史と(特に平成~2023年以前は唯一神扱いで切り分けることさえ不可能だった)ジャニー喜多川氏の実際の関係性・距離感を改めて整理することを第一の目的としています。(2024.6.28)

※こちらのページは今後、第4~5章の更新時にも追記の予定があります(2024.6.28)

性暴力ってどんなこと?【もし被害を受けたら?】【性的同意】

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性的な被害、ひとりで悩んでいませんか?


性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センター(電話相談)

性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センター | 内閣府男女共同参画局

「Cure time(キュアタイム)」(オンライン相談)

CureTime 性暴力の悩み、相談してみませんか?

ジャニーズ事務所の再発防止特別チームが調査報告書公表 ジャニー氏は「長期間にわたって広範に性加害を繰り返していた」

ORICON NEWS・2023年8月29日付
www.oricon.co.jp

ジャニー喜多川氏の性加害に関する再発防止特別チームの調査報告書(概要版・PDF)

https://saihatsuboushi.com/%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%EF%BC%88%E6%A6%82%E8%A6%81%E7%89%88%EF%BC%89.pdf

ジャニー喜多川氏の性加害に関する再発防止特別チームの調査報告書(公表版・PDF)

https://saihatsuboushi.com/%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%EF%BC%88%E5%85%AC%E8%A1%A8%E7%89%88%EF%BC%89.pdf


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ガールグループとは何か③ もっとも優先度が高いのは「パフォーマーとしての自意識」

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ガールグループとは何か

ガールグループとは何か③ もっとも優先度が高いのは「パフォーマーとしての自意識」
さらにこの1960年代には、エンタメコンテンツとしてのガールグループの受容に大きな影響を与えるレコードレーベルも登場する。
モータウンである。

1959年設立のモータウンは創業者であるベリー・ゴーディー・ジュニアが自動車工場の分業制をヒントに、設立間もない頃からパフォーマーだけでなく、プロデューサー、ソングライターといった専属スタッフもあらかじめ自社で確保していた。
そして、この自社完結システムの中で生まれ、なおかつモータウンに初めての全米1位をもたらしたのが、4人組ガールグループのマーヴェレッツが歌う『Please Mr. Postman』である。

The Marvelettes『Please Mr. Postman』


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1961年の大ヒットソングはデビュー前にグループのメンバーやその友人が制作していた原案を、モータウン専属のソングライターだったフレディ・ゴーマン、ブライアン・ホーランド、ロバート・ベイトマンが手直しする形で世に出た楽曲だった。
また1963年には3人組ガールグループのマーサ&ザ・ヴァンデラスも、やはりモータウン専属のソングライターチーム、ホーランド=ドジャー=ホーランドが手がけた『Heat Wave』で全米4位のヒットを記録している。

Martha and the Vandellas『Heat Wave』

ヒート・ウェイヴ

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そして、1964年にはついに、このモータウンの所属アーティストが”ガールグループ黄金時代”の頂点に君臨することになった。
3人組ガールグループのザ・スプリームスである。

ザ・スプリームスは1961年のデビューから数年はヒットに恵まれなかったものの、1964年になるとシングル『Where Did Our Love Go(邦題:愛はどこへ行ったの)』が初めてヒットし、グループ初の全米1位を獲得。
するとここから人気が爆発し、なんとシングル5作連続全米1位の快挙を一気に達成してしまうのだ。

The Supremes『Where Did Our Love Go』


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中でもこの時期の5作のうち、1965年の『Stop! In the Name of Love』は、『Stop!』で手を前に強く突き出すサビの振付とともに現代でも広く知られている。
それは単にヒット曲というだけでなく、この振付がザ・スプリームスを時代の王者たらしめる重要なピースとして、当時からよく機能していたからである。

The Supremes『Stop! In the Name of Love』


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1961年のシュレルズからガールグループにおけるダンス・フィーチャーはすでに一種の文化として定着しつつあったが、それがなぜ、1965年のザ・スプリームスで本格的な爆発を見せたのか?
実は、その答えはとても明快だった。

【無料】ガールグループとは何か② パフォーマー、プロデューサー、ソングライターの分業制が起こす化学反応

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ガールグループとは何か

ガールグループとは何か② パフォーマー、プロデューサー、ソングライターの分業制が起こす化学反応
また○○における現代の「ガールグループ」の解説をいま一度振り返ってみると、2番目に多く言及されている区別化表現は「楽器の演奏をしない」 、つまり“ガールグループは音楽活動における主体性を持ち合わせていない”という示唆である。
これも1960年代アメリカの人気ガールグループに目を向けてみると、彼女たちのサクセスストーリーを語る上でソングライターやプロデューサーの存在が欠かせないという点に、イメージの一致を見る。
特に1960年代初頭のアメリカ・ガールグループにおいて、力を発揮していたのは「ブリル・ビルディング・サウンド」のクリエイターたちだった。
ブリル・ビルディングとはニューヨークに実在するオフィスビルの名前で、もともと戦前から音楽出版社や関連事務所が多く入居していた建物なのだが、若者向け音楽市場が大きく成長する1950年代後半になると、このブリル・ビルディング内でも若者向け音楽作品への需要が高まり、ターゲット層に近い感性を持った若いソングライターが集められるようになっていた。
そして1960年代初頭になると実際に、ブリル・ビルディングで若き才能が生み出した作品たちは、ロックンロールと入れ替わる形で次々にアメリカの若者の心を射貫いていく。
実は前述のシュレルズも、このブリル・ビルディング・サウンドを武器にスターダムへと駆け上がったグループのひとつであり、『Will You Love Me Tomorrow』を提供したのはブリル・ビルディング・サウンドを代表するソングライターチーム、ジェリー・ゴフィン&キャロル・キングであった。
ジェリー・ゴフィン&キャロル・キングは他にも4人組ガールグループのシフォンズ(『One Fine Day』全米5位 )、また優等生的若手ポップス歌手のボビー・ヴィー(『Take Good Care of My Baby』全米1位 )のヒット曲なども手がけている。
(ちなみに10代からブリル・ビルディングで作曲活動を行っていたキャロル・キングが世界的シンガー・ソング・ライターとして知られるようになるのは、この後のことである)

また同じくブリル・ビルディング・サウンドの関係者としてよく知られている人物に、フィル・スペクターがいる。
彼はもともと男女混成コーラスグループ・テディベアーズのメンバーとしてレコードデビューしており、1958年には自身が作詞作曲を手がけた『To know him is to love him』が全米1位 を獲得していた。
するとその反響で自信をつけたスペクターは、自分の目標を歌手から音楽プロデューサーに変更。そしてグループの解散後に修行先として自ら選んだ場所が、あのブリル・ビルディングだった。
やはりブリル・ビルディング・サウンドを代表する有名ソングライターチーム、ジェリー・リーバー&マイク・ストーラーのスタッフとして経験を積んだスペクターは、1961年になると自身のレーベルを設立。
以降はブリル・ビルディングのソングライターたちと組みながら、本格的に音楽プロデューサーとして作品を発表するようになっていったのだ。
フィル・スペクターが手がけたガールグループのヒット曲には、ブリル・ビルディング・サウンドのソングライターであるエリー・グリニッチ&ジェフ・バリーと組んで制作されたクリスタルズ『Da Doo Ron Ron』(全米3位) 、ザ・ロネッツ『Be My Baby』(全米2位) などがある。
またこれらの楽曲は後に、フィル・スペクターのこだわりが凝縮された革命的録音技術「ウォール・オブ・サウンド」の代表作としても評価されるようになっていった。

ちなみにガールグループの存在を介して広まった「ウォール・オブ・サウンド」が、後の音楽界にもたらした影響はあまりにも大きい。
カーラジオでザ・ロネッツ『Be My Baby』を偶然耳にしたザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンは、この時に受けた強い衝撃をきっかけに楽曲制作に没頭し始め、後に歴史的名盤「Pet Sounds」を生み出す。
「音楽活動における主体性は持ち合わせていない」。そんなガールグループの存在は視点を変えると、クリエイターにとっては音楽史を書き換えてしまう可能性さえ秘めた、偉大なチャレンジの場でもあるのだ。

The Chiffons『One Fine Day』


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The Crystals『Da Doo Ron Ron』

DA DOO RON RON: THE VE

DA DOO RON RON: THE VE

  • アーティスト:CRYSTALS
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The Ronettes『Be My Baby』

BE MY BABY: THE VERY BEST

BE MY BABY: THE VERY BEST

  • アーティスト:RONETTES
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【無料】ガールグループとは何か① テレビ時代の輝き

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ガールグループとは何か

①テレビ時代の輝き

The Shirelles『Will You Love Me Tomorrow』


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学校で行われるタレントショー(文化祭的イベント)に出演するために高校の同級生4人で結成したシュレルズは、あのチョリー・アトキンスの教え子となり、そして1961年、『Will You Love Me Tomorrow』で黒人女性コーラスグループとして史上初の全米1位獲得という快挙を成し遂げた。
現代ではシュレルズ『Will You Love Me Tomorrow』が大ヒットした1960年代初頭あたりから、同様の女性グループがコーラスグループではなく「ガールグループ」にカテゴライズされるようになっていくのが定説である。

そう言われてみると確かに、現代のガールグループの共通イメージは、この1960年代初頭にアメリカで大活躍した女性グループたちの特徴とおおむね一致していた。
例えばそのまま、シュレルズ『Will You Love Me Tomorrow』のステージである。
曲の始まりからすでに、リードボーカルは少し離れて一人、バックコーラス担当のメンバーはまとまって三人と、ドゥーワップブームを経て普及した「リードボーカル+幅広い役割を担うバックコーラス」スタイルが視覚的にもはっきり表現されている。
そしてリードボーカルが主旋律を歌い始めると、他のメンバーはコーラスと併行して、時にWill youで外側を、そしてlove meで自分を指すなどというように、歌詞の内容と連動した振付を披露していく。
またそれだけに留まらず、シュレルズの場合は1950年代までのコーラスグループよりもさらに踏み込む形で、リードボーカルのソロパートが続くシーンになるとバックコーラス担当のメンバーがマイクから離れ、時には背も向けてまで、揃いの振付で観客を楽しませているのだ。
彼女たちが従来の女性コーラスグループではなく女性によるポップミュージックのボーカルグループ、つまり別枠の「ガールグループ」に分けられていく流れは、ドゥーワップブームから派生したこのダンスの“異質感”が、1950年代から1960年代をまたいだ人々の間で強く作用したのだろうと推測される。

考えてみると、密接かつ横一列なコーラスワークが特徴的だったボズウェル・シスターズアンドリュース・シスターズの時代は、主戦場がヴォードヴィルやブロードウェイのステージ、トーキー映画、ラジオであり、そのパフォーマンスは「集まった大勢の観客が一斉に視聴する」ことが第一条件だった。
となると、やはり彼女たちのエンターテインメントには歌もダンスも、さらには衣装も髪型も揃えて、一糸乱れぬシンクロの迫力を磨き上げる理由があった。

しかしアンドリュース・シスターズのファーストキャリア末期にあたる1950年時点でわずか9%だったアメリカのテレビ普及率は、エルヴィス・プレスリーのブレイク前夜である1955年には64.5%、そしてシュレルズのブレイク前夜である1960年には87.1%まで達している。
この時点でもはや、エンターテインメントのメインストリームは決定的に「家族などの少人数、あるいは一人で見る」方へ引き寄せられていた。

つまりコーラスグループと一線を画すガールグループのダンス・フィーチャー、そこにあった演出意図はまさに「テレビ時代の輝き」だったのである。


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若き優等生が歌うポップミュージックの流行

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若き優等生が歌うポップミュージックの流行

前述の通り、すでに1960年代初頭のアメリカでは若者に衝撃をもたらしたロックンロールブームが過去の記憶にされつつあった。
しかしその一方で、ロックンロールが存在を知らしめた若者たちの熱量は、これからがさらに高まるとも見込まれていた。
親世代の世界大戦からの解放と連動して生まれたベビーブーマー世代が、1960年代には次々にティーンエイジャーとなることを、アメリカの出生率はずっと指し示していたからである。
そうなるとブームが沈静化しても、若者向け市場に引き続き”新商品”が投入されるのはごく自然な判断である。
だがひとつだけ、その商品は「優等生的」であることが絶対条件だった。

「50年代末、ロックンロール・シーンを牽引していたスター・シンガーたちがいっせいに第一線を退いた。この時期以降しばらくの間、少なくともヒット・チャート上からは不良っぽいロックンロール派の音楽がほとんど姿を消し、もっと親しみやすく、優等生的な手触りの、大人も文句をつけないようなヒット・ソングが幅をきかせはじめた」
(萩原健太『ロックンロールの時代:~ロックンロール誕生からフィル・スペクターまで~』)

1960年代が始まったばかりのこの時期、若者に届く新たな音楽が「優等生」に定められたのは、どちらかというと若者自身の渇望以上に当時のアメリカ音楽界の都合が先立っていた。
直前に起こったペイオラスキャンダルはロックンロールの生みの親だったアラン・フリードの栄光を一気に吹き飛ばしたが、そもそも彼が曲を流す見返りとしてレコード会社からの謝礼を受け取っていたのは、それが1950年代のアメリカ音楽界全体の慣例でもあったからである。
しかし1950年代末にマスメディア内の謝礼のやりとりが社会問題化し、アメリカ連邦議会の下院監視委員会がラジオDJたちに聞き取りを行った際、謝礼を受け取ったことはないという宣誓書への署名を拒否した“反抗的な”アラン・フリードが後に商業賄賂の罪で起訴されたのに対し、事前にレコード会社との利害関係を全て精算した有名ラジオDJ・ディック・クラークは「立派な青年」とのコメント付きで起訴を免れるなど、「従順かどうか」でその後の明暗はくっきり分かれた。
このペイオラスキャンダルの裁きに見え隠れする保守層の大人たちの視線を、当時のアメリカ音楽界はおそらく、無視することなんてできなかったであろう。
だからこそ1960年代初頭の若者に届く新たな音楽は「優等生でなければならなかった」のである。

では実際に、1960年代初頭の若者へ届けられていた「優等生的ポップミュージック」とは一体どんなものだったのだろうか。