小娘のつれづれ

一人で自分の”好き”を追いかけています。

「1998年の星に願いを」 #baystars

1998年11月3日、中学3年生だった私は桜木町駅からパシフィコ横浜のあたりに向かっていました。
静かな祝日のみなとみらい、一人歩くその少し先の道路にふと大きなバスが何台も通り過ぎるのが見えました。
まさにこれから優勝パレードへと向かう、横浜ベイスターズの選手たちを載せたバスでした。
よく晴れた景色の中で、その白いホームユニフォームはいつにもまして綺麗に目に映ったのを覚えています。


翌年の1999年、中学を卒業した私は親の仕事の都合で4歳からずっと住んでいた横浜の街を離れました。
「自分がいなくなった後も横浜はきっと強いんだろうな」
自分のいない故郷には自分の見ていた鮮やかな景色の記憶と、そしてもうその先を知れない少しの寂しさも重ねていました。
しかし私の想像とは裏腹に、ベイスターズは年々、勝利から遠ざかっていきました。
やがて大学生になっても、20歳を過ぎても、ベイスターズは優勝どころかもはや最下位が指定席のチームになりつつありました。
「横浜」
それでもその言葉に毎年期待をかけていたのは、自分が大好きなその街の名前がついていたからです。
大学卒業後に北海道の実家を出て関内で一人暮らしを始めたのは、22歳の私にとって「離れてしまったその故郷でもう一度暮らす」ことが、どうしても叶えたい、初めて努力したいと思えた願いだったからです。
そして頭の片隅には、いつしかこんな事も浮かんでいました。
「自分の夢が叶ったときに、いつか横浜ももう一度優勝できるのかな」
社会人生活が始まった頃、住んでいたマンションには時折、横浜スタジアムの歓声が届きました。


今も忘れられない記憶があります。
2006年9月、横浜スタジアムの近くに住んでいた私はその日たまたま自転車で、スタジアムのある横浜公園の中を通っていました。
暗く人も少ない球場の周りに一か所だけ人だかりができているのを見かけ、何だろうと近くに寄ってみました。
「よし!!」
球場内から場外に向けられたテレビ画面を見てガッツポーズを決めていたそのほとんどは、その年阪神と優勝争いをしていた中日のファンたちでした。
対戦相手であったベイスターズのファンは、みんな球場内にいたのだと思います。
しかしその人たち以外に、球場の外で足を止めてベイスターズに目を向けてくれる人はあの日ほとんどいませんでした。

結局その年も、その次の年も、横浜はBクラスのままでした。
そして横浜に帰ってきたはずの自分もまた、追いかけていたはずの「故郷がほしい」という願いは、いつしか取り戻せない時間の中にもうそのチャンスさえ失われてしまっていたことを知り、ショックからほとんど逃げるように横浜を後にしました。
大好きな横浜。大好きだった横浜。
それから何年も、ずっと戻ることはできませんでした。


強い喪失感をやっと受け入れることができたのは2012年、結婚をしたことで、遠く離れた北海道でもう一度自分の人生と向き合う気持ちになれたときです。
そして同じ年、横浜ベイスターズも親会社の変更により、「横浜DeNAベイスターズ」へと球団名が変わることが決まりました。
北海道からテレビで見ていた初年度のキャンプイン、誰よりも元気で誰よりもマスコミにフィーチャーされていた中畑監督は、その直後にインフルエンザにかかり、キャンプ3日目にしてホテルの部屋で一人隔離されるはめになりました。
それでもベランダから大きな声で「おーい!!」と選手や報道陣に手を振っていた中畑監督。
面白かった。正直テレビの前で笑いました。
でも不思議と元気がでた。
そしてその後どれだけ屈辱を味わっても、指揮官はあの大きな声で、負けることに慣れきってしまったチームやファンたちの心をずっと鼓舞し続けていました。


私が本当の意味で「横浜に帰ること」ができたのは、中畑監督が暗かったチームの雰囲気を変え、そしてラミレス監督がその後を継ぐことになった2016年頃の話です。
転勤族育ちでいつしか帰る場所を失ってしまった自分は、それでも小さな頃から思い続けていた執筆業になることで、雑誌や書籍、ウェブメディアを通じて、遠く離れた大好きな街のその日常にいたいという夢を、少しずつ現実にできるようになりました。
仕事で首都圏に行ける機会も少しずつ増えていきました。
久しぶりに横浜スタジアムで野球を見てみようかなと思ったのは、いつのまにか沢山の人で埋め尽くされるようになった横浜公園を通った、そんな時です。
9月の夕暮れのスタジアム、ベイスターズの選手がフォアボールで出塁すると、一塁側から大きな歌声が聴こえてきました。
それが「横浜市歌」だとすぐに気づいたのは、そこにいた多くの地元ファンと同じように、私もまた「横浜市歌」を小学校の音楽の授業で当たり前のように習っていた一人だったからです。
私が10代半ばから悩み、そして20代の時に長く苦しんだのは、度重なる引っ越しによってリセットされてしまった自分の時間がもう取り返せない現実と、そしてついに他人と何も共有しきれないまま大人になってしまった、そんな焦りから来る強い不安でした。
でもきっとここには、私が見ていたものを、私が大好きで諦めきれなかったその思いを、わかってくれる人がいる。
私が横浜スタジアムで見たその勝利から約2週間後、横浜はついに初のクライマックスシリーズ進出を決めました。
結局そのまま2016年は結果的にファイナルステージでカープにボロ負けしてしまうけれど、例え私の抱いているものが子供の想像のような夢物語だったとしても、青く染まったあの景色で、私は近い未来を信じてみたくなりました。


あれから1年後の2017年9月、私は初めて自分の本を出しました。
私を育ててくれた横浜の街には今、私はいないけれど、私の紡いだものがその街に日常の記憶として存在してくれることで、過去を取り戻せない私はそれでも前を向いて、自分の人生を明るく歩み続けることが出来ています。
「GO BACK TO YOKOHAMA」
日本シリーズ進出記者会見の後ろにあったこの文字が、今日一番沁みました。
歓声は、届かなくても。



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