小娘のつれづれ

一人で自分の”好き”を追いかけ続け、執筆業になりました。2017年に初の単著がでました(乗田綾子名義)。



2017年9月発売の『SMAPと、とあるファンの物語』(双葉社)については【こちら】

「ファン心理に向けられる「正義」」

TV


元FUNKY MONKEY BABYSのファンキー加藤が、ダブル不倫をしていたというニュース。


その作風とあまりにもかけ離れた単語のオンパレードに、正直他人の私でも報道を見た朝は眠気がすっ飛ぶくらい驚いたものですが、実は知った瞬間からもう一つ、私にはその不貞のディティール以上に、ずっと気になっていることがありました。
「応援していたファンにはどんな声が向けられているのか」

本人による謝罪会見やその報道がメディアを独占した翌日の夜、こんな続報記事がありました。渦中のファンキー加藤が主演映画のPRイベントに参加し、報道後初めてファンの前に立ったという内容です。
その時に飛んだ「頑張れ!」という声援に対して、記事につき尚且つ支持を受けていたコメントは、このようなものでした。


「頑張れの意味が分からない」



「頑張れ…か。ファン心理ってよく分からないね」



「あれだけ人として最低な行動とった奴に、頑張れとか意味不明な声援する人って、本当にファンか?」


ファンキー加藤、主演映画PRイベントでファンに生謝罪 観客からは「頑張れ!」 (スポーツ報知) - Yahoo!ニュース


生きる上で本来は必要のないものを、「好き」でい続ける気持ち。
価値観の多様化で自由を得たように感じていたそんな文化は今、実は新しいフェーズを迎えているのではないかと思い出しています。
昔からあったバッシングとネットスラングの祭りがSNSの加速度をもって”炎上”となり、それがマスメディアまで巻き込んでの浸透を叶えた時、社会の判断基準は逆に2つに絞られていきました。
それが正義であるか、否か。


* * *


今回のファンキー加藤の場合、確かに彼の取った不倫という行動には、多くの人が異を唱えるでしょう。
ましてや彼は少なからず世に影響を及ぼすアーティストであり、そして家庭を持つ一人の社会人でもありました。
「言われても仕方ない」。その正義は良心を捨て身勝手な驕りと快楽を選んだ彼自身が、再起するために受け入れるべき言葉でもあると思います。


ただ、「あれだけ人として最低な行動とった奴に、頑張れとか意味不明な声援する人」にまで、社会は正しさの二択を問うべきなのでしょうか。


どうも飲み込めないことがあります。
頑張れと言った気持ちに求める、その正しさの答えは一体どこにあるのか。
というかそもそもその声援は、本当に意味不明なものであったのか。

実際記事の終わりには、この日会場にいたファンの声が掲載されています。


「不倫は許されることではないけど、加藤さんの歌やライブに何度も助けられてきた」

ファンキー加藤、主演映画PRイベントでファンに生謝罪 観客からは「頑張れ!」 (スポーツ報知) - Yahoo!ニュース


ここには正しさでは決して括れない人間の感情があります。
生きてきた毎日の苦しみがあり、喜びがあり、いくつもの逡巡の上に、彼ら彼女らは「ファン」になりました。


「頑張れ」と言ったその気持ちまで、正義の火は燃やし尽くしてしまうべきなのか。


* * *


実はこういう事に関心を持っていたのは、直近の自分自身にも、また同じような”声”が向けられていた時期があったからです。
私は今年の初め、20年以上応援しているグループの分裂スキャンダルに遭遇しました。


渦中の彼らが世間を騒がせたことを詫びた夜、私はテレビもネットも一切見ずにずっと考え、そして「否定しない」という答えを出しました。
それは建前ではなく、やはり小さい人生でも生きてきた毎日の苦しみと喜びを持って、私自身が選んだ言葉でした。


その時の私は、こう言われています。


「見事な信仰心の告白。自分から見える世界が綺麗なら舞台裏がどんなに汚れていても関係ない。やれやれだ」

http://b.hatena.ne.jp/entry/drifter-2181.hateblo.jp/entry/2016/01/19/030700


自分の好きすら信じられない「正しさ」なんて、それはそれで、なんだか窮屈だ。


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