小娘のつれづれ

一人で自分の”好き”を追いかけています。

「After SMAP ~SMAPがジャニーズを変えた3つのターニングポイント~」

「After SMAPで時代が変わりすぎ。
そう、スマ暦とは、SMAPがデビューしてから始まった新しいジャニーズの暦のことでした。勝手に作りました。」
(「西暦2014年、スマ暦24年」/over and over)

いつも読ませていただいているジャニーズファンのさささんのこちらの更新を、個人的にすごく興味深く読ませていただいたのですが、ジャニーズの歴史を追っていく中で最後に
「なんだかとりとめのない話になってしまいましたが、じゃあSMAPがどうやって変えてくれたのか?」
「SMAP陣営が意図してグループを「長生き」させようとしていたのか? それとも時代がそうさせたのか? あるいは…? 」
という問いかけがあり。

そこを読んでいて、それの返答というわけではないんですが
ちょうど27時間テレビを中心に、グループに関する色んなコメントが発信されまくったこの2014年…
その一つの句読点として、自分が収集してきたSMAP本人たちの発信をちょっと整理してみたいなーとふと思い立ちました。
(以下敬称略)

After SMAP ~SMAPがジャニーズを変えた3つのターニングポイント~

1・アイドル冬の時代に芽生えた『自覚』

こちらは女性アイドルを軸としているnaubootlegさんのtumblrからなのですが、(こちらも私すごく好きなブログです)、まずアイドル冬の時代に関して、こちらの記事を引用させていただきます。

「アイドル」を「10代の著名な歌手」と規定する。

wikipediaを参照すれば1988年には、まだ「年間売上金額TOP10」に光GENJI、中山美穂、南野陽子、中森明菜が入っているが、この中では中森、南野は既に10代ではないので、ここでの基準からすれば2組となる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/1988%E5%B9%B4%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD
この基準で言えば89年は工藤静香、光GENJI、Wink(相田翔子がまだ10代)の3組で、まだ少なくはない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/1989%E5%B9%B4%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD
これが90年になると工藤とWinkが2人とも20代になるので0組になる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/1990%E5%B9%B4%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD
そして91年には「元アイドル」としても小泉今日子のみ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/1991%E5%B9%B4%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD
92年には「元アイドル」も姿を消すことになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/1992%E5%B9%B4%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD

1995年にはSMAPが「年間売上金額TOP10」に入ってくる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/1995%E5%B9%B4%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD
(「「アイドル冬の時代」とは何だったのか」/naubootleg)

オリコンの年間売上TOP10から10代のアイドルが消えていた1990年~1994年を「アイドル冬の時代」とすると、その間にデビューしたジャニーズグループは忍者(1990年)、SMAP(1991年)、TOKIO(1994年)の3組。
その中でも忍者はデビュー前の88年からすでに『少年御三家』として光GENJIや男闘呼組と同列の芸能活動を行えていた事*1
またTOKIOのデビュー時は同年にSMAPが初のオリコン1位を獲得するなど、アイドルジャンルにもだいぶ復活の兆しが見えていたという事情を踏まえると、
少なくともこの3組の中で時代の逆風を一番被ったのは、やっぱりSMAPだったのではないかと思われます。

デビュー曲『Can't Stop!! -LOVING-』がオリコン1位を取れず、ジャニー喜多川氏に怒られたというエピソードはもはや超有名ですが、じゃあこのアイドル冬の時代にSMAP自身が何を見たのかというと、それは「アイドル」という生き方の残酷なまでの現実。
そこから、全ては始まりました。

「最初は勘違いをしていた」
(木村拓哉 / 「Bananavi!」2014 Vol.001)

「エンターテイメントに、僕らSMAP何ができるんだって言っても、とても微力と言えば微力なんですよ、何もできないんです」
(香取慎吾 / NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」(2011))

「安心感なんてないです」
(稲垣吾郎 / 「週刊SPA」2014.7.22/29 合併号)

「アイドルだから、”SMAPの中居”だから司会をやらせてもらえてるんじゃないかなと思ってます」
(中居正広 / 「Bananavi!」2014 Vol.001)

「(デビュー曲で1位を取れず)社長から『前代未聞だよ』って怒られましたね。それが最初の挫折です」
(草なぎ剛 / 「Bananavi!」2014 Vol.001)

<2015.1 追記>

「(SMAPは)踊れる子たちから見れば、踊れません」
(メリー喜多川 / 「週刊文春」2015年1月29日号)

2・アイドルグループの武器が『リアル』になったその理由

「当時のジャニーズに司会業をやっている人がいなかったので」*2
「SMAPというグループとして、そういう人間がいるのも絶対プラスになる」*3
という考えの元、司会という道筋を定めたと話している中居正広ですが、
27時間テレビを直前に控えたインタビューでは、自らの司会経験も踏まえながら当日の見所をこのようにイメージしています。

「メンバーには楽しく、素直に感情を出してもらって。それがSMAPの一番いい形だと思うので、ありのままのリアルなSMAPを見てもらいたい」
(中居正広 / 「Bananavi!」2014 Vok.001)

中居正広がSMAPの一番いい形だと考えるこの『リアル』、
実はこれはリーダー1人だけではなく、年長メンバーとして現在も共にグループを牽引している木村拓哉も同じ見解を示しているのです。

「偶像を作り上げてるんじゃなくて、常にその時のリアルを見せてる」
(木村拓哉 / 「月刊TVnavi」2015年1月号)

「当時のジャニーズに司会業をやっている人がいなかった~」というくだり、実際にはデビュー前のSMAPもレギュラー出演していた「アイドル共和国」の時点で、光GENJIの年長メンバーであった内海光司が、グループ在籍中に同番組の司会を務めています。

同じインタビューで「17歳前後で、まずメンバーの中で一番仕切れるようになろうと思いました」というコメントもあるのですが、中居正広の17歳前後はちょうどアイドル共和国に出演していた”1989年前後”でもあり、
まずここで、中居はアイドルグループのメンバーの司会という立ち回りを実際に見ていること。

その上で、初登場2位という”前代未聞”のデビューを飾った冬の時代のアイドルグループが生き残っていくためには歌でもなく、お芝居でもない、
バラエティという『リアル』を通じて知ってもらう方法しか残されていなかった。
SMAP以前のジャニーズが自分たちのことを操り人形と例えていたならば、アイドル冬の時代にデビューしたSMAPにはそもそも操り人形になれる選択肢がなかったという決定的な違いがあり、
それがSMAP、特に年長2TOPの共通見解として「アイドルグループSMAPの武器はリアルであること」になっていった。
そして同時にアイドル中居正広の目標も、”自ら究極のリアルを探し伝える”、司会者へと定まっていく。

「SMAPというグループとして、そういう人間がいるのも絶対プラスになる」

…そしてこの話はまだもうちょっと続きがあって、SMAPが『リアル』で生き残っていったタイミングというのは、ちょうどバブル崩壊とも重なっているんですよね。
(バブル崩壊の始まりと言われる景気後退開始が1991年3月、SMAPのCDデビューは1991年9月)

バブル、いわば偶像の崩壊と共に若者の価値観も大きく変化していったこの時期に、
例え偶然だったとしても、リアル路線へと舵を切っていった選択は結果的に大正解だったわけで
後にその変化をもたらした不況ムードが失われた20年という言葉が生まれるほど長引いたという現実は、実際にバブル崩壊後の世代である1983年生まれの自分の肌感覚で考えても
”リアルアイドル”SMAPのブレイクに続いた以後のジャニーズタレントの活動、そしてジャニーズ自体の人気の継続にも、大きく関わってた…ような気がする*4

3・歴史まで変えたSMAPの『前例』

ちょっと前のくだりが長くなってしまいましたが…これが最後の3つめ。
2013年のいわゆる「スマスマ5人旅」あたりでいよいよ広く知れ渡ってきた感じがありますが、SMAPの根幹にあるのは、特にリーダーを中心としてずっと貫かれている「グループへの愛情」です。

「今大切なのは、何よりもSMAPだから、6人で大きくなる事が第一の望み」
(中居正広 / 「ポポロ」1994.4月号)

「5人でいればなんとかなるだろうと思えるし、どうなるか分からないものに対しても立ち向かうことができる」
(中居正広 / 「週刊ザテレビジョン」2014 No.49)

すでに30年近く抱き続けているメンバーのグループへの思い入れが1つだけ<After SMAP>という歴史を作ったとしたら、それは「脱退でグループを終わらせなかった」、という事だったのかもしれません。

というのは、史実を振り返ると、SMAPの結成メンバー6人が事務所に入った1987年時点ですでに所属していた先輩ジャニーズは近藤真彦と少年隊を除き、後に全員が脱退や解散(活動休止)の道を選んでいます。
この決断のタイミングがさささんのブログにもでてくる”年齢制限”というワードと関係あるのかは、はっきりとはわかりません。
ただ少なくとも一つ確実なのは、SMAPにとって一番直近の先輩でもあった光GENJIと忍者は、それぞれメンバーの脱退から1年後にグループ解散の道を歩んでいたということです。

ですがご存知の通り、言ってしまえばジャニーズグループの伝統でもあった「方向性の違い」が自分たちに訪れた時も、SMAPは解散しなかった。
30代までに数回あったというその危機をなぜSMAPは思いとどまってきたのか、その理由自体はまだはっきりわかりませんが、
結果的に脱退者が出てもグループは存続できるという前例を、ジャニーズ事務所において「SMAPがこれ以上ないレベルではっきりと作ってしまったこと」が、
その後の後輩ジャニーズと世間の”脱退”の受け止め方に大きな影響をもたらしているのは、まぁ間違いないような気がします。

スマスマの5人旅見たよ。カラオケで最後にベストフレンド歌って、泣いてくれてありがとう
(森且行 / 「27時間テレビ」(2014年))

* * * * * *

というわけでなんだか触発されて、ここまで色々と楽しく書いてきましたが
ここで最後にはっきりと書いておきたいのは、「これが決して、アイドルグループ・SMAPの全てではない」ということで。

期せずしてSMAPの動向を追うようになって、メンバーより最大11歳年下の私でももうすぐ20年になりますけど、
いまだに新証言は出るわ、歴史は塗り替えられていくわで、たぶんこの先も…
当分SMAPの全てを私たちが理解するのは到底不可能だと思います!
特にリーダーの中居正広さんに関しては最近のインタビューでもすでに「来年も時間かけて準備して何かやりたい」とか「SMAP30周年を機に何をするのか考えなくてはいけない」とか言い始めているので、もはや公式コメントレベルでもご本人がどんな未来を描いて動いているのか、わかるわけがない!

…あ、でも最近買ったMr.SツアーのライブDVD(BD)の特典映像にある、「10年前の自分に一言」という問いへの中居さんの答えは、ちょっと意外で興味深かったです。
テレビや雑誌では絶対に言わないであろう、アイドルにとってホームは”ファン”であるからこその選んだ言葉かなとも思いました。
気になる方は、ぜひ現物で!

関連リンク
「西暦2014年、スマ暦24年」(over and over)
「SMAPという時代」(ねぼけまなこ)


<STORE>

*1:ちなみに1988年当時、光GENJIは『パラダイス銀河』、男闘呼組は『DAYBREAK』が大ヒットしていました

*2:「Bananavi!」2014 Vol.001

*3:「Bananavi!」2014 Vol.001

*4:今回はジャニーズがメインテーマなのでそれ以外のアイドルについては触れませんでしたが、長引いた不況と”リアルアイドル”については、女性アイドルの方でも結構関係性が強かったんじゃないかなと書き終わってから思いました